大地であった母

母について今まであまり書いたことがありませんでした。
というか、書けないでいました。
やっと書きました。
長いです。。。。
誰のためにでもなく、私のために書いてみました。


母は私にとって大地のような存在だった


その母が突然くも膜下出血で他界してしまったときは、私の根っこが
根こそぎ取りぬかれてしまったような気がした。

母は 911 米国同時多発テロが起きた半年前の2001年3月15日に亡くなった。
私の誕生日の5日後、母が70歳になる13日前だった。

当時米国に住んでいた私は、母の兄である私の叔父が亡くなったために
日本に一時帰国していた。転職のちょうど合間で、新しい会社の日本支社を訪れる
ことも目的とした短い帰国のはずだった。

誕生日を一緒に祝い、私が頼んだことをすべてこなし、母の弟の初孫の顔も拝み、
妹の子供抜きで母・父・妹・私と珍しく4人だけで寿司も食べた。

その2日後 20年以上通い続けていた津軽三味線の教室に行き、その帰りに86歳の
おばあちゃんを家まで運転して送っていく途中でくも膜下出血で意識を失った。

同車していたおばあちゃんは、「痛いっ!」と叫んで車を脇につけて
そのまま意識を失った、と説明した。
窓の開け方を知らないおばあちゃんはしばらくの間車の中でパニック状態
だったという。

一方私は家で母の帰りを待っていた。
夜10時半までには必ず帰ってきた母。その日は10時半を過ぎても帰ってこなかった。
イヤな予感がしていた。

夜10時45分頃、玄関の戸が開く音がした。「ただいま」と聞こえた気もした。
三味線が重いだろう。「おかえりー」と玄関に行く。
でも、誰もいなかった。戸はぴったりと閉まっていた。
胸騒ぎがした。

その5分後、電話が鳴った。
受話器を取ると救急車、からだった。

訳の分からない日本語が左耳から右耳に抜けていった。
朦朧としていて、どう理解してよいかわからなかったのを記憶している。
とにかく、寝ている父を起こしに行く。
父は突然起こされたことに驚いたのか、救急車から電話、という私の表現に
驚いたのか、起きたばかりだというのに目をかっと見開き無言のまま電話に向かった。

病院に運ばれた。車が途中で止められている。行って車を引き戻してくれ。
父さんは病院に行くから。

心臓がばくばくして気が動転していたのでこのあたりは実はあまり覚えていない。
私は夜中に一人でその車の放置してあるところに行って車を回収した。
駆け足で、早く病院へ行きたい、という想いのみがあったのを覚えている。

見知らぬ道を何とか運転し車庫に車を入れ、表通りに出ると、そこにタクシーがいた。
深夜に。何というタイミングで。
それに飛び乗った。運転手さんが「何か急ぎのようですね」と。
母が意識を失って、と伝えたような気がする。
飛ばして行ってくれた。

病院へ着いたら、待合室に父の他に母の弟の私の叔父がいた。
母はまだ救急病室にいた。
ベンチに座り込み膝に膝をつき垂れた頭を抱えていた私の肩を叔父は
優しくなでてくれた。

しばらくしてストレッチャーの上に横たわった母が出てきた。
飛び起きて母の近くに寄った。
母は目をつむっていた。そのつむった目から涙が出ていた。
仰向けで意識不明の母の頬にかすかに流れ落ちる涙だけが生きているようだった。
医者が「脳内でかなりの出血が見受けられます」
多分意識は戻らないだろう、というようなことを言っていたような気がした。

目の前が真っ暗になった。何も考えられなかった。
さっきまでキレイな赤い口紅をつけて笑っていた母。
赤い口紅のかわりに青い口びるがそこにはあった。

緊急病棟に運ばれた母の近くで母の手をさすりながら一晩を過ごした。
それから2日間のことは、母の横にいたこと以外あまり覚えていない。
3日目の15日の朝、担当医が巡回してきた。
担当医は母の目を指で開いて瞳孔を調べた。
その母の瞳は知性の高かった母の瞳ではなくなっていた。
母の瞳は赤ん坊の瞳になっていた。
もうそこに、母はいなかった。

あれこれ診察する担当医に、母の手をさすりながら「母の意識が戻ること
はあるでしょうか」と聞いてみた。
若い担当医は申し訳なさそうに「その可能性はかなり低いです」と答えた。

担当医が病室から出ようとしたその瞬間。
ベッドの横の生体情報モニタがピ―――と音を立ててすべて真っ平な直線を描いた。

母は何かを悟ったかのように逝ってしまった。

泣いたかどうか覚えていない。
私は悔しかった。
その悔しさは数年続いた。
眠れない夜がたくさん続いた。
そして、根っこを伸ばす場所をなくして私はぐったりなった。

母は真のスーパーウーマンだった。
厳格な警察学校初代校長を勤めた私の祖父に育てられた母。
頭脳明晰、煙管でたばこをふかし、祖父と別居したハイカラかつとっても強い
私の祖母に育てられた母。
8人兄弟の長女として育った母。
高校生になるかならないかの大事な時を戦争に奪われた母。
東大に行った弟を横目で見ながら、自分は学校に行けなかった分、自学で英語を勉強した母。
いくつかのお見合いを蹴飛ばし、30歳まで独身を通したのに、何故か7歳も年上の父
と恋におち、祖母の反対を押し切り、結婚式も行わずに父と籍を入れた母。
祖母の反対のため、嫁入り道具の家具をリヤカーで自分一人で運んだ母
(この家具のうち2つは現在もロサンジェルスの倉庫にあります)。
結婚してからは女性キラーの父に苛まされた母。
戦後20年足らずの日本で私と妹を抱え必死に生き延びようとふんばった母。
私が5歳のとき、周りの目を気にしながらも意を決し父と離婚した母。
祖母と別居していた祖父の元に転がり込み、宅建の国家試験を受け免許をゲットした母。
その後私たちに父親の存在は必要と踏み、籍を入れずに父を受け入れた母。
フルタイムで不動産業をバリバリ営み、休む暇なく働きながらも毎食欠かさず
手作り料理を作ってくれた母。
一方で仏さまのように優しく、口数は少なく、周りからは「仏の木村さん」と
呼ばれていた母。
私が石油ショックでドル高 (300円を超えていた) 時代にアメリカのホームステイ
プログラムに行きたい、と言えばかなえてくれた母。
私が二か国語放送の機械が欲しい、と言えばかなえてくれた母。
私のために英語のテープ集や百科事典を高いお金をかけて買ってくれた母。
何も言わなくても私たちが学べる環境をずっと作ってくれた母。
辛くても冗談を言いながら私たちを和ませてくれた母。
家事をこなすだけでなく、大工仕事も自分で全部していた母。
そして忙しい中、向学心が高かった母。
茶道、華道、弓道はもちろん、書道は師範の資格を持っていた母。
津軽三味線を20数年ずっと習っていた母。
絵も得意で、後年は絵画教室に通い続けていた母。
裁縫も得意で、妹とおそろいの可愛いワンピースをたくさん作ってくれた母。
小さなゲーム機が壊れたときおもむろに鉛筆の芯を削りゲーム機に入れて
直してしまった母。
赤ワインを小さなグラスに1杯だけ飲むのが好きだった母。
一時帰国した私に付き合って深夜まで話し込んでくれた母。
晩年は孫 (妹の子供たち) の母親がわりとなり勉強を見たりしていた母。
笑顔がステキでとにかく暖かく美しかった母。



お母さん、本当にありがとう。
今はやっと何とか根っこを自分ではやすことができるようになりました。





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